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2011-04-28

それでも海は豊かだと言うべきか

熊本日日新聞に掲載された、川島秀一先生(リアス・アーク美術館副館長)の寄稿記事を読んで泣きそうになった。川島先生ご自身もお母様とご自宅をなくされて、目の前から故郷を失った。リアス式海岸は天然の漁場であると同時に津波も寄り上がる地形を有しているとしたうえで、次のように述べている。

「そのような幸も不幸も神からの「寄り物」とし全てを受け入れる諦念と懐の広さとが必要とでもいうのだろうか。今こそ、津波に何度も来襲された三陸沿岸に生き続けた漁師の、そのような運命観、死生観、そして自然観に学ぶときなのだろうか。そして、津波に打ち勝つためにも、それでもなお、海は豊かだということを私は言うべきなのだろうか。

ただひとつ分かったように思えたのは、三陸の漁師たちは海で生活してきたのではなく、海と生活してきたのではないかということである。海と対等に切り結ぶ関係をもっていなければ、今後もなお漁に出かけようとする心意気が生まれるはずがない。そのような積極的な生き方に、私自身もう少しだけ賭けてみたい。日はまだ暮れてはいないのだから。」

海と生活、かぁ。だよなぁ。震災後に周りからよく尋ねられるのは、インタビューに応じる気仙沼の人達の前向きさだ。家が流されて間もないおじいさんが「さあ復興だ」と語ったり、早く漁に出たいと語ったり。とにかく明るい。なぜと聞かれても分からなかったが、川島先生の記事で目から鱗が落ちる思いがした。

KENJI

コメント

海で(By)生活、海と(With)共に生活
難解ですが、成程と言わせる下りですね。さすがに川島さんです。
小さい頃、内湾を目にして育った私には、海は怖いもの、大きくなってからも、一見穏やかそうに見える海は海底で海流が渦巻き、油断したら牙を剥く、そしていつか大きな禍や脅威をもたらすものと思っていました。
遊覧船の船底から下は恐ろしい海、ビルの7階に居ても1階から6階までは本来は無の空間だったはずと考えると、足元が竦む思いがします。
高所恐怖症の人は、多分同じような強迫観念をお持ちではないでしょうか。
命を「寄り物」に依存する生物と寄り物以上のものを求める人間では、背負う業も深いのでしょうね。

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