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2007-11-24

技術革新に支えられた町

 気仙沼は技術革新に支えられた町、といったらいまいちピンと来ないと思う。ところが歴史をひもとくと、技術革新の波にのって町が発展していったことが分かった。江戸初期、東北の一寒村に過ぎなかった気仙沼が、なぜ日本有数の漁港になったのか。黒潮と親潮がぶつかる三陸沖に近く、天然の良港だから、というのが定説だけれど、それなら大船渡でも女川でも良かったわけで、それ以外の要因があって今の気仙沼ができたのだと思う。

 世界の都市をあちこち訪ねて確信したのは、結局は食える場所に人が定住するということ。先日行ったフィレンツェは、ルネサンス期の大富豪メディチ家がつくった町だった。メディチ家初代はミョウバンの販売で財をなした薬売りで、メディシン(薬)だからメディチ、という説もある。それはともかく、食えなければ町を出て行く。その原則は600年前も今も変わらないし、日本も世界も同じだと思う。極端な話、原始時代でも変わらないのではないか。まずは自分が食えて、家族が食える。そして家を建て、家財を揃え、さらに豊かな生活をめざす。ようするに富を生み出せる土地に人が集まるわけで、気仙沼での富の源泉は技術革新だったわけだ。

 まず第一の革新は漁撈技術。江戸時代中期、1677年のことだ。唐桑・鮪立浜の鈴木家。昨年までプラザホテルを経営していた古舘だ。当時、廻船業に失敗した鈴木家は、今で言う村長のような役割があった肝煎の座を明け渡していた。鈴木家の起死回生策だったのか、新しい事業展開だったのか、上方漁師は釣り上手との噂を聞いた鈴木家は紀州から5艘招いて漁法の手ほどきを受けた。

 中には紀州漁師を受け入れれば、飯の需要が高まり米代が上がる、鰹節製造のための薪代が上がると受け入れに消極的だった陣営もあった。また紀州の漁師は1676年、桃生郡の沖合いでクジラとカツオの出漁許可を伊達藩に願い出ている。しかし、クジラを突くと油が流出して汚染すると漁師たちは反対した。結局紀州の船は桃生沖で漁ができなかったという。

 そういう消極論とは逆に、唐桑半島では紀州漁師を積極的に受け入れ、それまでの待ちの漁法からモリ突き漁法へ転換し、漁獲高が一気に10倍に増大した。早い話、生産性が10倍になって、原価コストが10分の1になったわけだ。

 この漁撈技術の革新が富をもたらし、東廻り航路の発達が富をさらに加速させることになった。

KENJI

2007-11-18

新婦父

Shunchiaki

 従姉妹の結婚式に出席した。新婦父は母の8歳下の弟で、僕が生まれた時は高校生。叔父と呼べる年ではなかったので、あんちゃんと呼んでいた。人柄を端的にいえば硬派(でありたい男)。カッコをつけたのは、硬派であるかどうかは他人が判断するもので、確かに硬派ではあるが、それ以上の硬派さを求めているのではないかと思うからだ。筋を通そうとし、おべっかを使わない。変化球を嫌い、直球勝負を好む。僕が小学生の頃、あんちゃんが愛読する硬派マンガを読めもしないのに借りた。男はヘラヘラするものではないと説教を受けたこともある。好きな言葉はたぶん仁義と男気。そのあんちゃんが新婦父としてどんな振る舞い方をするのか、僕はウォッチすることにした。

 新婦と腕を組んで入場。すでに目が腫れていた。あんちゃん、もうですか!

 各テーブルへお酌まわりをしていた時、誰かが「嫁さけだ(嫁へくれた)」と言ったら「けだんでねぇ。独立させたんだ」と強弁した。おぉ、新婦父の複雑な心境!

 帰りのマイクロバスで村田英雄『王将』を熱唱。「東京で暮らすおめだづ、よく聞げ!」と3番に力を込めた。その勢いで喜納昌吉『花』を歌ったら村田英雄調だった。

KENJI

 

2007-11-15

マデに

Madeni

 日経に福島相馬地方の方言「までい」が載っていた。これ、気仙沼でもイントネーションは違えど言ってるんでないの。両手を意味する“真手”から来ているらしく、意味は「丁寧に」。調べてみると東北のあちこち、とくに太平洋側で使用されている。イントネーションは微妙に違うだろうが、気仙沼ではカクテルの「マティーニ」と同じイントネーションで発する。さらに演歌のうなりを織り交ぜて「マデェーに」と発するとそれらしく聞こえる。

 床屋で「マデに切ってけらい」と言えば通常より長時間、ステーキ屋で「マデに」と言えばウェルダンが出る。かどうかは噂だが、気仙沼では「時間をかけて」の意味で使われる場合が多い。使用場面を考えてみると、親に言われた記憶はあるが、言った記憶がない。客が言うことはあっても、店からは言わない。そりゃ丁寧にやるのは当然だから自ら「マデにやりました」とは言わない。そう考えるとマデは店と客、親と子、親方と弟子のように力関係がはっきりしている場合に、命令、依頼、要求、報告で使われていると思う。「両手で扱うほど丁寧に」が本来の意味だから、それを知ってか知らずか目下の者は使わないのかもしれない。

 ところでこのマデ、語源は万葉集までさかのぼる。両袖を「真袖」と詠み、当時から完全な状態を「真」と呼んでいたという説が有力だ。また「真手」は平安末期の歌人、西行法師が次の歌を詠んでいる。

 御手洗(みたらし)に 若菜すすきて宮人の まてに捧げて 御戸開くめる <山家集>

 水場で春菜をすすぐ宮仕えが、うやうやしく両手に持って戸を開ける…ということなのだろうか。でも両手が塞がっていたら、足や肩で開けたのだろうか。まあそれはいいとして、西行法師は奥州藤原氏の遠戚で、奥州へ二回来訪していることにピンときた。西行法師の行路と「マデ」の使用分布が重なったら面白いなと。マデ=両手=完全な状態=拝む手つき=真理とつながるのではないか。ひょっとして西行法師は仏法を説きながら奥州へ来ていたのかも。

 それに西行法師が奥州藤原氏を訪ねた理由は、友人の僧侶から東大寺再建のスポンサー探しを頼まれたためと言われている。当時、奥州は金の産地。金で覆われた大仏を作るには、藤原氏の協力が必要だったと思う。そして、援助を約束した奥州藤原氏は、金の採掘現場へ「真手に」とお触れを出したのかもしれない。産金地と「マデ」の分布が重なったら面白いかも、なんてまた仮説を立ててみた。

 知の蟻地獄に陥っている。

KENJI

日本経済新聞 春秋2007年11月10日

2007-11-12

遣水の水源を追う

Yarimizu

 5月に毛越寺へ行ったとき、遣水の水源を追った。造園技術の完成度もさることながら、何に一番感動したかと言えば、平安時代にこんな導水技術があったということ。水は高きから低きに流れるのは今も昔も変わらない。バルブメーカーに勤める友人が、隙間があれば漏れるし、窪みがあれば滞留するし、水は簡単なようで難しいと言っていた。考えてみるとその通りだと思う。今じゃポンプで引けるけど、動力のない当時、絶やさずにとうとうと流れる仕組みをどうやって造ったのだろう。沢水を引いたのか、それとも水源が近くにあるのか。いにしえの土木技術に想いをはせながら、水源を追ってみた。

Shusuiguchi

 遣水を登っていったら、寺の境界に沿って中尊寺までの遊歩道が整備されていた。その脇に用水路がある。これか。どうやら遣水専用ではなさそうだ。田植えの時期だからなのか、雪解け時期だからなのか、水がとうとうと流れ、ハンドル式で取水量を調節している。水路は石垣で積まれているけど、古くない。たぶん、遊歩道と一緒に整備したのだと思う。平安時代の取水路もこれだったのだろうか。ますます気になる。

Shusui_tunnel

 500m位歩くと東北自動車道にぶつかった。近くに川があったので取水口を見つけたと思いきや、水路は高速下を横切って、まだまだ続いている。どこまで延びてるんだろ~。

Shusui_endpoint

 高速を横切って、県道ねずみ沢線を300m位のぼったらフェンスがあった。おぉぉ、ここか!と思いきや、水路はまだまだ続いていた。

Shusui_continue

 沢の対岸に水路が…。フェンスで遮られてそれ以上は追えなかった。それにしてもどこが水源なんだろう。まさか平安時代にこんな長い水路は造ってはいないだろう。察するに昔の用水路を農業兼用に整備し直して、水が枯れない場所に取水口を設置したと思うけれど…気になる。

KENJI

2007-11-05

曲線今昔考

20071104_037

 東京へ戻る途中、平泉の毛越寺へ寄った。5月に帰省したときにも寄って、池に水を引き入れる水路「遣水」に感動した。日本で唯一、平安時代から残る遣水で、曲線で緩急の流れを生み出しつつ、自然な流れを演出している。しかも当時『作庭記』という庭園あんちょこ本があって、記述通り風水で吉相とされる流れで造ったという。そこまで考えつくされているとは平安時代万歳!優雅すぎて見とれてしまったのだ。

 今回もまた1時間近くながめて、ふと気づいた。この曲線、夜のヒットスタジオのセットに似ている。横向きで出現して、階段を降りながら正面に迫ってくるあのセット。ラブアタックもこんなセットだったはず。曲線だと奥行きが出るうえ、優雅さも醸し出せるのかもしれない。歌手が立体的に見え、成立カップルがエレガントに見えたのはあの階段にあると気づいて、水か人かの違いだけで、平安時代も現代も優雅に見える技法は変わらないんだなと思った。

 膝を揃えて斜めに突き出すと足が長く見える、女子アナ座りもこの技法なんだと思った。

KENJI

河原田ライブカメラ

BBっといー東北