技術革新に支えられた町
気仙沼は技術革新に支えられた町、といったらいまいちピンと来ないと思う。ところが歴史をひもとくと、技術革新の波にのって町が発展していったことが分かった。江戸初期、東北の一寒村に過ぎなかった気仙沼が、なぜ日本有数の漁港になったのか。黒潮と親潮がぶつかる三陸沖に近く、天然の良港だから、というのが定説だけれど、それなら大船渡でも女川でも良かったわけで、それ以外の要因があって今の気仙沼ができたのだと思う。
世界の都市をあちこち訪ねて確信したのは、結局は食える場所に人が定住するということ。先日行ったフィレンツェは、ルネサンス期の大富豪メディチ家がつくった町だった。メディチ家初代はミョウバンの販売で財をなした薬売りで、メディシン(薬)だからメディチ、という説もある。それはともかく、食えなければ町を出て行く。その原則は600年前も今も変わらないし、日本も世界も同じだと思う。極端な話、原始時代でも変わらないのではないか。まずは自分が食えて、家族が食える。そして家を建て、家財を揃え、さらに豊かな生活をめざす。ようするに富を生み出せる土地に人が集まるわけで、気仙沼での富の源泉は技術革新だったわけだ。
まず第一の革新は漁撈技術。江戸時代中期、1677年のことだ。唐桑・鮪立浜の鈴木家。昨年までプラザホテルを経営していた古舘だ。当時、廻船業に失敗した鈴木家は、今で言う村長のような役割があった肝煎の座を明け渡していた。鈴木家の起死回生策だったのか、新しい事業展開だったのか、上方漁師は釣り上手との噂を聞いた鈴木家は紀州から5艘招いて漁法の手ほどきを受けた。
中には紀州漁師を受け入れれば、飯の需要が高まり米代が上がる、鰹節製造のための薪代が上がると受け入れに消極的だった陣営もあった。また紀州の漁師は1676年、桃生郡の沖合いでクジラとカツオの出漁許可を伊達藩に願い出ている。しかし、クジラを突くと油が流出して汚染すると漁師たちは反対した。結局紀州の船は桃生沖で漁ができなかったという。
そういう消極論とは逆に、唐桑半島では紀州漁師を積極的に受け入れ、それまでの待ちの漁法からモリ突き漁法へ転換し、漁獲高が一気に10倍に増大した。早い話、生産性が10倍になって、原価コストが10分の1になったわけだ。
この漁撈技術の革新が富をもたらし、東廻り航路の発達が富をさらに加速させることになった。
KENJI
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