2011-04-03

震災その後

叔父が遺体でみつかり、土葬した。叔母はまだ見つからない。親戚のおばさんは一昨日火葬。むせび泣きもここまでくると涙もでない。前を向いて歩いていくしかないんだもの。被災地で暮らす人達はどんな思いでいるんだろう。電話口では気丈に振る舞っているけれど、あのときの話になると涙声になる。従妹は津波と火災を目の当たりにした。「あたし死ぬのね、死ぬのね」と上司のズボンにすがりついたという。だれもがそういう体験をしたんだと思うと胸がつぶれそうになる。

家族はかろうじて生き残ったが、間一髪だった。地震発生時、妹は近所で髪を切っていた。路上で狼狽する人達をみて、ただごとではないと察知して支払いせずに帰宅した。母は台所でお支度をしていた。祖母は2階にいた。下に降りようとする祖母を父が制止した。母が店のサッシとカーテンを閉めたところで波が来た。母は最初、手でガラス戸をおさえていたという。すき間から水が漏れだして、ガラスが割れる前に2階へ駆け上がった。ものの数分で1階天井まで浸水した。店が流されていたら、どうなっていたか分からない。

復旧に向かった弟からは「兄貴は帰ってこなくていいがら。そっちで稼いで金送れ」と電話があった。その通りだと思う。家族は収入の大半を失った。第二の津波がもうすでに来ている。自然災害は僕にはどうしようもないけれど、経済災害を少しでも食い止められるように、一生懸命働こうと思う。

KENJI

 

 

2011-03-19

津波到来時の状況

母も携帯でブログを見たようで、誤りを指摘された。

  • 第一波は店舗2階に母、祖母、妹3人で避難。
  • 父は車を河原田の倉庫へしまったあと、防災服に着替えて仙台銀行前で誘導。その後カブバイクで防災センターへ向かう。途中、神山橋付近で左脇から白波が見えた。
  • 車中にいた近所の娘さんとお子さんを2階に引き上げ、店舗2階に5人で避難。水が引くのを待った。
  • 第一波が引いた後、市役所へ逃げようとするも月立屋米店前に角星園茶補が漂着し、道がさえぎられた。
  • 第二波到来前に高幸さん宅クローゼットに避難。
  • 第二波〜第五波くらいまで高幸さん宅で難を逃れる。
  • 3月11日(金)午後8時頃、「内湾で火が出た」とのことで、信金本店ビルに人が集まりだした。
  • しかし暗く、がれきで足元が見えなかった。
  • 懐中電灯が手配できたので、男手を借りながら信金本店ビル4階に避難。
  • 21時の防災無線「早春賦」が鳴った。
  • 信金職員、近所の人らと信金本店ビルで一夜を過ごした。
  • 3月12日(土)午後2時頃、自衛隊に救助された。
  • 3月13日(日)午後、魚町で消防服を着て作業する父を母が発見した。

KENJI

2011-03-17

津波到来時の状況

妹から津波到来時の状況を聞くことができた。

  • 第一波、武山一家は店舗から50メートル西北にある、高幸の正樹さん宅屋上で難を逃れた。
  • 第二波到達前、水が引いたタイミングで信金本店ビルに人が集まりだした。
  • 武山一家も信金本店ビル4Fに避難。一夜を過ごした。
  • 3月12日(土)午後、自衛隊に救助された。
  • その後、市役所に避難した。
  • 残ったのは位牌と遺影、初代が購入した掛け時計。これらは安全な場所に移動させた。

祖母の長靴は正樹さん宅の子ども用を拝借した。父は仙台銀行前で最後まで誘導していたので、近くの避難所では「武山さんが見えない」と話題になった。50mしか避難できなかったということは、父の指示なのか、それしか行けないほど切迫していたのか分からない。

かろうじて動くスクーターで、妹が避難所を巡って叔母の安否を探っている、とのこと。

 

KENJI

2011-03-15

母から電話があった

3/15 19:24 母から電話がありました。災害用携帯から、ひとり5分ずつ。

  • 武山文英は災害対策本部詰め
  • 武山せい子は避難所で災害ボランティア
  • 武山栄子は菅原中子宅に避難
  • 武山陽子は菅原中子宅で栄子の付き添い

一通り家族の安否を話したあと、母は「世紀末だ」と。

「希望をもって。できることはこっちでするから」としか言えませんでした。

また、津波にもまれた築80年の店舗は残った模様。3年前に耐震工事をしたからでしょうか。向かいの岩手銀行が波の減衰を助けてくれたのでしょうか。他の家財も混じってメチャクチャだそうですが、残っただけでもありがたいです。

KENJI

避難者名簿ネットで公開

避難者名簿の画像がこちらに随時アップされています。ご参考まで。

http://goo.gl/ganbare

KENJI