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2006-03-04

やせミチを歩く その1

Matsukawagawa

 気仙沼から内陸への主要道は国道284号線だ。その原型は藩政時代に整備され、気仙沼街道と呼ばれた。天保の大飢饉では4000人以上が死んで、藩命を受けて秋田藩へ米を譲り受けに行った大工がいたそうだ。熊谷新右衛門。彼は気仙沼から秋田までの旅程を『秋田日記』に記した。

 それ以前、中世は松川から上八瀬、鳥居峠を越える八瀬街道が内陸部と結ばれていたという。石碑には「やせミチ」と刻まれている。八瀬といえば京都比叡山のふもとから大原へ抜ける地域もそうだ。山にはさまれ、谷あいには高野川が流れている。気仙沼の八瀬も地形が似ているから、奥州藤原氏時代に京都を模して名づけられたのではないかと思う。平泉は当時、平安京に次ぐ日本第二の都市だった。栄華を極めて1124年には中尊寺金色堂を建立した。この辺で金が産出されていたことを考えると、あの金色堂の一部には気仙沼産の金が使われ、八瀬街道を通っていたに違いない。

 史料によれば「気仙沼街道は交通の難所で、中世は八瀬街道が主要道だった」と書かれているが、僕はそうでないような気がする。平泉は北西にある。真西から北へ向かうより、最短距離で向かおうとした。だからわざわざ真西に道をつくる必要がなく、八瀬街道を使っていたのではないか。直角三角形のイメージだ。藩政時代に気仙沼街道が整備されたのは、平泉ではなくて仙台や江戸とつながるため、あるいは内陸で生産された葉煙草や蚕の交易路として真西に伸びたのではないかと思う。

 奥州藤原氏の栄華に想いを馳せながら、やせミチを歩いてみた。写真は松川橋から撮った松川川。

KENJI

参考資料 
かんせん東北vol.19「内陸と沿岸を結ぶ流通・交易の道
東北の道路「気仙沼街道
気仙沼の峠「鳥居峠

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コメント

ここ3日間ほど変な風邪をひいたみたいで、食欲も無く、吐き気と下○に悩まされていました。だからといって体重が減ったわけではありませんが・・
下○などは30年前、家のトドと一緒にブータン・インドへ旅行した時以来です。

気仙沼の八瀬街道に関する文を、興味深く拝読しました。
京都の八瀬は昔から天皇の崩御の際、その棺の御輿を担ぐ役目で、かつては租税も免除されていたと記憶しています。
八瀬童子と呼ばれていたのがそれです。
確か、昭和天皇のご崩御の時にも、特別に参加を許されたと思うのですが・・・

風邪にもめげず、お味噌のための麹購入に行った、神田明神様やスダチのおいなりさんもUPしたので見にいらしてね。

>影山のり子さん
風邪のなかでも腹にくるやつはとてもタチが悪いですね。食べたら下すし、気力は衰えるし。御自愛ください。
八瀬童子、京都の地名辞典で読んだことがあります。昭和天皇の際は大喪の礼にオブザーバとして参加したようです。八瀬は京都の中で鬼門にあって、八瀬童子は鬼の子孫だの、天皇家の忍者だの、色々な伝承があるようです。興味深いのでよく調べてみようと思います。
詳しくはウィキベディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90
にあります。

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