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2010-03-30

赤岩城へ登る

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 日曜昼、松川にある赤岩城へ。この赤岩城は中世の山城で、奥州藤原氏征伐の戦功として1189年に源頼朝から熊谷直宗が賜ったものといわれている。以降、葛西氏時代も使われ、秀吉の奥州仕置きまでの400年間使われていたという。場所は気仙沼バイパス松川トンネル入口一帯。コンクリート製ののり面がある小山がそれ。何ヶ月か前の三陸新報で、公園化の会結成みたいな記事があったので登ってみた。そしたら今日の三陸新報に載って、しかも28日に神事をしたとか。僕が登った時はだれもいなかったので、神事直後だったのかもしれない。そういえば近くにマイクロバスが止まっていて、おふるめの割にはみな軽装だと思っていた。そうか、この慶事だったのね。いま合点した。

 ということは僕が参拝第一号かも。わーい。

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 上から見るとこんな感じ。写真右下が松川トンネル、左下の青い屋根がパチンコ店。

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 秋葉神社の脇を抜けて登り口から約7分弱で西郭に到着。栗林になっていた。

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 さらに東へ登るとお宮が建っていた。ここが上空写真にある現在地。標高87m。かなり新しい縄からみて、やはり神事直後と思われる。

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  頂上は木にさえぎられ何も見えない。この城はどこまで見えたのだろう。頂上から見えぬなら麓から探せばよい。ということで新城沖をうろついて、四反田あたりまで赤岩城が見えたのを確認した。ということは当時、この辺は湿地帯と干潟の汽水域だったのではないかと想像した。なぜなら、海路と陸路の要衝が赤岩城だとすれば、いまの地形では意味をなさないからだ。気仙沼駅あたりまで続く細長い海岸だったこと、赤岩城を中心に細浦館、長崎館だったか、化粧坂上あたりにも居館があったことから、四反田あたりまで海でだったと考えている。

 でも逆に考えれば、いまある市街地のほとんどは埋め立て地、ということになる。800年以上かけて埋め立てて、市街地の歴史は埋め立てとともにあると思った。土木機械のない時代、どうやって埋め立てたのだろう。って馬と牛と人によるものだろうけれど、とても気になる。それと食えなきゃ移動する行動原理は人も動物も同じわけで、埋め立ててまで暮らしたい食い扶持とは何だったのか、とても気になる。もう少し調べてみよっと。

KENJI

気仙沼 赤岩城(熊谷城)
気仙沼市松川
※私有地ですのでくれぐれも周辺に配慮した行動を。

 
 

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