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2005-03-25

松島や あぁ塩釜や 気仙沼

matsushima 天下の名景、松島。
 二百六十余もある島々はそれぞれ独特の海食地形をみせ、赤松黒松でいろどられ盆景の様な風景です。私の小学校時代、父によくに松島に遊びにつれてもらいました。そのため図画の宿題は殆ど松島ばかり描きました。手前に山一つ描いて、右に一つ、奥にまた一つ。宿題といえば小学校3年位までそればかり描いていました。

先生に歌も書けと言われたので「塩釜や あぁ塩釜や 塩釜や」と書いたら笑われました。父は46歳で私が20歳、末弟が2歳の時に亡くなったので、兄弟の中で一番多く松島に連れて行ってもらったと思います。小さい時の事を色々と思い出し、なつかしくなりました。
 先週送った松島はとっても上手に描けましたが、今度は余り上手でないようです。
 近頃孫のみんなは忙しいようで電話きませんね!!
 まってます。

EIKO

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コメント

先日塩釜に帰った時
何かの会話の途中で父にたずねました。
「おじいさんってどんな人だったの?」

そういえば母方も父方もおじいさんの事は
ほとんど聞いたことがありません。
EIKOおば様も言ってますが、父が2歳の頃に
他界したのですから記憶になくて当たり前ですね。
いったいどんな人だったのでしょうかね。

おばあ様の事はなんとなく覚えています。
いつもニコニコしていて、一本松の家の前で
写真を撮った記憶があります。
母に聞くと藤倉の家にも泊まりに来たといいます。

あ!
思い出しました!
そうそう!仙台空港に向かっているときに
一本松の家はどうなったのか?
ちょっと通ってみよう!ってことになり
おじいさんの話になったのでした。

今度は塩釜の絵もお願いしたいですね。

>末弟の娘さん
 あのね、自分の親だがら言うんでないけんと、男の中の男だったよ。鷹揚でこせこせしない、人の世話を買って出る、でも商売は下手だったなぁ。

 兄弟7人みんな父ちゃんに似ているどごあっけど、性格も顔も一番似ているのは末弟でねぇがな。

 若い頃、塩釜を代表して相撲の全国大会に出だの。それと達筆でっさぁ、筆がうんと上手くてね。家の中は父ちゃんが筆で書いた襖だらけだったのっさ。白いところあれば壁でも屏風でも筆文字で、酒飲んで近所でも書いてだんだぁ。片倉おんつぁんとか矢部お茶屋とか、あちこちに残ってだのっさぁ。

 昭和18年10月の河北新報に「小野田村の農家、コメを国に供出せずに隠している」って記事が出たの。そしたら父ちゃん塩釜中から魚集めて、小型トラックに乗せて小野田に行ってあだりほどりにタダでバラまいてきたの。国のためにコメを供出してくれって。小野田は父ちゃんのふるさとだから、あの記事読んで居ても立ってもいられなくなったんだろうねぇ。それだけ一本気な人だったんだ。

 何日か経って、今度は「千万人行けども我行かん<塩釜の熱血漢現る>」って記事読んで、みなタマゲダんだぁ。熱血漢って父ちゃんだったのっさ。それまで家族に黙ってだんだよね、小野田でタダで魚配ったってことを。
 ほんで母ちゃんにあったげ怒られでだの。

 塩釜の絵ね。塩釜神社でも描こうかな。

(口述筆記・代打)

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