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2009-01-18

本吉郡気仙沼より難船ニテ国々被流る事

 先日見つけた『本吉郡気仙沼より難船ニテ国々被流る事』の古文書を時系列順にまとめてみた。詳しくはこちら。古文書はむかし字でほとんど分からない。解説は何となく分かってどんどん引き込まれる。漂着者がいかに手厚く保護されていたか分かって涙が出そうになった。

(1)帰還のための代替船を手配した
(2)積荷の売却に協力した
(3)大坂(大阪)までの滞在・渡航費用をすべて負担した

 これらはすべて琉球国と薩摩藩が分担している。病人には薬を与えた。死者には葬儀をほどこした。御番所向けの顛末書だから、役人に配慮した文面とはいえお礼の気持ちが十分伝わってくる。人の道はいつの時代も変わらないと思った。

 最後、気仙沼を出発してから1年5ヵ月後にご当地へ帰着したとある。「ご当地」が気仙沼か分からない。鰹節や椎茸など、積荷の種類から見てたぶん気仙沼船籍だと思うが、さらに調べてみようと思う。文政六年、亀吉、琉球で没すと記されている過去帳が見つかるといいのだが。

KENJI

『本吉郡気仙沼より難船ニテ国々被流る事』(PDF:97KB)

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コメント

面白い古文書です。
近頃、海運・街道に関して細かく調べていまして、当時東廻(江戸登せ)が石巻を中心に盛んに行われていたようです。気仙沼も1航海すると財産が築けた(市誌)といわれ、観音寺には弁財船の絵馬も有るようです。そんな中の一つが漂流したのかもしれませんね。
http://www4.airnet.ne.jp/sakura/bezai_fr1.html
(参考:弁財船)
その後の解釈楽しみにしています。

>mayamiさん
 海運と街道、僕も非常に興味あります。こんどぜひお話を聞かせてもらえませんか。
 mayamiさんおっしゃるように千石船(菱垣廻船)が漂流したものと思われます。古文書は店米山武へファックスしましたので、お時間ある時にでもぜひご覧ください。
 話は飛びますが川名登著『河岸』(法政大学出版局)によれば、銚子の一般商荷物を扱う問屋を「気仙問屋」と呼んだそうです。それだけ三陸地方からの荷物が多かったことが名前から想像できます。

気仙道(現45号)は、かつて鮎貝氏の仙台上府の道だそうですし、気仙沼街道(現284号)は海運での品物や海産物と内陸の米等との交換や、千厩周辺からの「タバコ、絹糸」などを積んだ荷駄が行き交っていたようです。石巻は大規模港だったので、仙台藩がしっかりつかんでいたようですが、その点気仙沼は離れていたので、ずっと自由だったのではないかと思われます。ただ、文献で気仙沼が出てくる率が低く、資料収集に追われています。でも、ほんと面白い世界です。

>mayamiさん

 当時、仙台藩の重要港は年貢米を集める石巻港だったと何かで読みました。気仙沼は仙台から遠く、代官所もなかったので小松宗夫さんは「町人自治の気風が強かったのではないか」と推測しています(『秋田日記』解説より)。
 町の風土は歴史の積み重ねがあって醸成されるのだとつくづく思います。海路が最先端のモノや情報をキャッチする時代があったことでしょう。僕も含めてまわりにあたらしもの好きが多いのは、当時の気質を受け継いでいるからかもしれませんし、行政よりも、と言っては失礼ですが、実行委員会形式で好き勝手にわーっとイベントでも何でもやってしまうあのバイタリティーは町人自治の名残かもしれません。そう思うと、歴史はつながっているんだと身にしみます。
 調べたら「三陸古文書調査研究会」という団体があるそうです。気仙沼の古文書は大火で焼けちゃってますかね。それから、こんなページがありました。
ミツカン水の文化センター
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_25/no25_a01.html
「全国市場を支えた船・商人・港」(斎藤善之)

面白いサイトを教えて頂き有難うございました。
中で「歴史が生んだ町の個性」の表現が有り、まさにその通りでうまい言葉だと思いました。
店米山武さん宅も、まさに歴史が生んだ個性ですね。
気仙沼街道の荷駄を調べていて、海運を調べることとなり果てしない迷路に彷徨いこんだ感じで、今、壁にぶち当たって砕けそうになっています。
地方の歴史は奥が深くて、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない凄さが有りますね。
また教えてください。

>mayamiさん

 その蟻地獄状態、よくわかります。次から次へと史実の砂が降りかかって。もっと奥深く掘ろうとすると回りから砂が崩れてきて。結局は広がってしまうんですよね。くれぐれもご自愛くださいー!
 ところで先週、首里城で修学旅行生と一緒になりました。言葉づかいからして首都圏からだと思います。彼女らは資料館を素通りして友人らとの記念撮影に乗じていました。そういえば僕もそうだったな、と。行った、という記録だけで、何も残っていません。若い頃はそれでいいんだと思います。それが三十なかばを過ぎて、歴史が立体的に見えてきました。世の中と自分との関わりが次第に明確になって、僕のバックグラウンドが知りたくなったのです。そんなこんな探しているうち、歴史は学ぶものではなく、自らの内に取り込むものだと思ったのです。
 まあ、僕の心情はいいとして、「観光」「歴史」この二つの組み合わせで考えたとき、その土地の人が歴史(物)をいかに大事にしているか、僕はそれで十分な観光につながると思います。観光の本質は非日常を味わう行為ですから。おいしいものを食べた、素晴らしい景色を見た、いにしえの思いにふれた、その味付けが歴史なのだと思います。

 江戸時代、気仙沼の交易商人もかなり力があって、仙台の城下にも招かれて商売したみたいなことが、気仙沼市史にも書いてあったと思うな。
 「歴史は学ぶものではなく、自らの内に取り込むものだと思った」、ふーむ、いいですね。
 観光は、何といっても、その土地の文化です。
 風待ち研究会の仕事は、ほんと、重要です。これも、気仙沼の宝。(あ、私も会員だった。)

>行った、という記録だけで、何も残っていません
そうそう、そうですね。
年齢と共に、歴史が身近になっていく感じ、良く分かります。
近頃とみに・・・^^;
身近な所で、秀次の(九戸仕置で陸奥に来た折)古文書を見ました。「秀次公御定書」
身近ではないと思っていた関西の武将が、天正の頃陸奥に来ていた…。
冷静に考えれば、頼朝軍だって来てるのですから驚くことはないのですが、東北も「教科書」でみた歴史の渦の中に巻き込まれていて、そこから地方の歴史が刻まれてきてる事を改めて感じています。
なんでも繋がっているんですね~。

私も同感です。 日本を離れて暮らすようになってから日本の文化、歴史を改めて見直すようになりました。そして我が故郷、気仙沼は尚更のこと。2007年に帰省中、「ぶら~と」気仙沼を歩いて立ち止まった古本屋さんで昭和52年に発行された「けせんぬま帖」というのを見つけ、即 購入しました。その中に・・・気仙沼商売従来・・・というコラムがあって、宝暦(1751~)ともなると親船による登(のぼ)せ商人の全盛時代~沿岸のいさばを積み、これに米、農産物を加えて銚子から江戸へ移出したもので、これら千石積み船は三十六隻も気仙沼を根拠にして「大いにかせいだ」と記されてありました。
Kenjiさんの発見した古文書のお陰で、当時の日本~気仙沼の歴史に吸い込まれていきます。これからも色々な情報、楽しみにしていますね。

>baseさん

へえ、そうなんですか。招かれるより「押しかけて」商売した方が気仙沼商人ぽいなあ!なんてのは冗談で、一寒村に過ぎなかった気仙沼がいち早く紀州漁法を導入し、カツオ漁の飛躍的な向上で富をたくわえ、その影響力を藩も無視できなくなった、と僕は解釈しています。これは戦後の話なのでしょうか、仙台駅前の土地を気仙沼の船主たちがもっていた、というのは。それから、こないだ60代の高校OBがこんな話をしていました。「俺達の頃、大学進学率は仙台一高、二高、気仙沼高校の順だった。それだけカネあったんだなや!」と。カネかよ!(笑)と思いましたが、それだけ余裕があったんでしょうね。それから、風待ち研究会さんの地道な活動にはほんと敬服しています。外部からやいのやいの応援すること位しかできませんが、微力ながら応援していきたいと思っています。

>mayamiさん

 なんでも繋がっている、まったく同感です。体からそう思うと、生きとし生けるものすべてを愛でたくなってくるから不思議です。人に、食べ物に、生きている自分と生かされている自分に感謝しています。お恥ずかしいのですが。
 それと、もう15年も前の記憶ですが、司馬遼太郎の連載に会津若松編で「東北は敗者の歴史」みたいなことが書かれてありました。それは上から目線ではなく、あたたかい視点だったと記憶しています。敗者の歴史は勝者に都合よく改ざんされる、と言ったら語弊がありましょうが、中身は忘れて強くそう思ったことだけ覚えています。いま探しているのですが「街道をゆく」の会津編にはそういう記述はなくて記憶違いかもしれません。

>Ritsukoさん

ややややや、当てずっぽうな情報もありますから!Ritsukoさんのように海外で暮らすとなおのこと、客観視できるでしょうし、見直すお気持ちよく分かります。アメリカで知日派の人が集まったとき、相撲の歴史はこうだの、歌舞伎はどうだの、茶道はなんだの、みなよく知っているんです。僕はついていけなくて、その時思いました。自分の国のことも話せなくてなにが国際人かと。バスケットのピポットのように軸足があって初めて世界を知れるのだと痛感しました。とくに人種のるつぼのアメリカでは様々な文化習俗が交差するでしょうから、軸足を強化すればするほど幅も奥行きも広がる、グローバリゼーションとはそういうことなのだろうと勝手に解釈しています。だからまずは英語より気仙沼弁、世界史より郷土史を体に取り込みたいのです。

実は・・・気仙沼商人は登せで稼いだと、気仙沼市誌には出てるのですが、「日本海運史の研究」「海からの文化・みちのく海運史」(渡辺信夫)、海運史の第一人者の著書の中に気仙沼の文字がたった1行、それもさっと・・・石巻や気仙の海運の記述は多々あるのに。(記述内容は差障りが有るので省きます)
これを見て、何故記述がないのか?気仙沼商人・登せの時期はいつ頃からなのか?を調べて、迷路に入った訳です。

>mayamiさん

渡辺信夫先生監修の『東北の街道~道の文化史いまむかし』(東北建設協会)にもあまり記述は見られませんでした。やっぱり火事で焼けてしまったんですかね。それともまだ手つかずなんですかね。類推するにカツオ節の大量生産が始まった時期と、魚町を埋め立てた時期と前後して登せが始まったように思います。僕もこの確証がほしくて調べたいのですが、なかなか見つかりません。

そうなんですよ。街道関係の(観光向けではない本)には、記述が少ないのです。
当時の交易は、藩が握っていまして統制も厳しかったようです。
書きにくかったのですが、古手について(省略)石巻・気仙沼湊をはじめ各津方で密仕入が行われている。と記されていました。(文化10年の頃です)
なので、記録も少ないのか・・・とか、気仙沼周辺は金だけではなく銅の産地も多かったので、藩としてはお宝地域を他藩に悟られないよう気仙沼を秘中の秘として公文書から隠したため・・なんて、勝手に思いを巡らしています。
後者の方がロマンがあって楽しいですが。信夫先生が書かないのに、何故市誌などには書かれているのか?平成14年発行なので、この謎なんだか釈然としないまま先生は亡くなられて聞くすべも有りませんが。

>mayamiさん
>気仙沼を秘中の秘として公文書から隠したため
うははー!googleマップの軍事基地みたいに隠して!学者は資料に依拠しますから、ご存命中に出てこなかったか、興味の対象ではなかったのでしょうね。

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