気仙沼大橋を越えて本町橋へ向かう途中に入母屋造りの家がある。対岸のザワザワで部活の練習をしていた僕らは「城ができる」と、上棟の様子を遠くから眺めていたら同級生の家だった。聞けば唐桑御殿大工に建ててもらったという。当時、唐桑御殿が何たるかを知らず「ふ~ん」で終わったような記憶がある。
唐桑御殿は四隅が反り上がった入母屋の屋根、贅沢なつくりの部屋が特徴だ。調べてみると力強い反りをつくるのに様々な伝統工法を駆使し、小屋組みには投げかけ梁の技法、釘をいっさい使わずにホゾとセンでつないでいくそうだ。神社仏閣を得意とした気仙大工と水漏れを許さないほど緻密に組む船大工の融合なのだろうか。もっと調べがいがありそうだ。
久しぶりに見た屋根は、新築当時より風格が増しているように見えた。
KENJI
市街地のほとんどは埋立地だ。中世までは284号線と45号線バイパスのジャンクション、松川前あたりまで海だった。1000年かけて今の地形になったのをおもんばかると、昔の人って大したものだと思う。機械のない時代、人力でエッサコラと埋め立てたのだろう。しかも導水路までつくっている。それが今の大川だもの。
加工団地を抜け、あけぼの橋を渡ると川沿いには住宅街が広がる。ほとんどの家は堤防の外にあるが、川辺に面した家もある。中学の時、川に接した同級生のM子Bちんの家は、茶の間から釣りができるという噂が広がった。だんだん尾ひれがついて「鮭を釣っていた」とか、挙句には「俺も釣ってきた」と言うやつも出現し、僕も釣りたいと本人に聞いたら一笑に付された。都市伝説の源ってこんなものなのだろう。
写真は内の脇の桜並木手前の川辺。江戸から明治時代にかけて、内の脇一帯ではのりが養殖されていた。こんな感じで干潟が広がっていたのだろうか。
KENJI
この辺を歩くのは20年ぶりだった。当時、3ヶ所くらいしかなかった工場が加工団地として整備され、今では10ヶ所近くになって新築工事もしている。工場の壁には社名が刻まれ、カネカだのマルヤマカだのダイウロコだのと、家号を冠したところが多い。
そもそも、なぜ家号か。もとは焼印を押して所有を示すためだったのが、市場での誤取引を防ぐためのものに発展していったと想像した。屋号はなんちゃら別家とか、某新屋と親族の区別を示すものとして使われ、家号は商取引上のトレードマークに使われたのだろう。山一だの山種だの、家号を社名にした証券会社がつい最近まであったのを考えると、市場と密接に関係するとみた。
こないだ魚市場へ行ったら、表示板にも使われていた。一覧性がある。家号は瞬時の判断が求められるとき威力を発揮するのだと思った。それにしても外字をつくるのに苦労したことだろう。JISキーで表現したらどうなるか試してみた。△△△=ミツウロコ、大△=ダイウロコ、○入=マルイリ、○^カ=マルヤマカ、口・=カクボシ、¬大=カネダイ、¬メ一=カネシメイチ。やはり一つにまとめた方が判りやすい。
KENJI
河口の底砂が西日に反射していた。すわ砂金かと浮き足立つ。むかしこの辺りは砂金の宝庫で、中尊寺金色堂に使われたり、朝廷へ献上品として使われたりしたという。
ヨーロッパではじめて日本を紹介したマルコポーロの「東方見聞録」では、ジパングの宮殿は黄金で覆われていると紹介された。
「ジパングは(中国大陸から)東方にある島で1500海里沖合いにある。この島はとても大きい。人々は色白で礼儀正しい。ここには金があるが多くはない。支配者の宮殿は非常に大きく、教会が鉛で覆われているように金で覆われている。部屋の四方は指2本分ほどの金で覆われている。すべての窓や壁、あらゆる小物から広間に至るまで金で覆われているのだ。その価値は言いようがない。」とある。
建物名の記述こそないが、この時期から見て中尊寺金色堂ではないかと考えられている。ということは、ここで産出した金もジパングのイメージに一役買っていたことになる。
金世界を見た僕はすでに億万長者気分で、向こう岸の鶴が浦に別荘をたてる自分を想像していた。それにしてもこんなにあるのになぜ採らないのか、もったいないと思いながら上流へ向かう。帰宅してすぐ「砂金の採り方」を調べたら、僕が見たのは金雲母だった。比重の重い金は沈んでしまう。よく考えりゃそうだ。砂の上に浮き出ているわけがない。にわか成金どころか、脳内成金は3時間でついえた。
KENJI
当店など、被災した内湾地区の国登録文化財は次の団体・企業のご支援で応急修理が進められています。世界各地からのご支援に深く感謝申し上げます。
文化財保護・芸術研究助成財団
|
---|
気仙沼風待ち通信 2013年2月号(PDF) |
最近のコメント