技術革新に支えられた町(2)
こないだ漁撈技術の革新が気仙沼に富をもたらしたと書いたけれど、どちらかと言えばすでにある技術を先んじて活用すること、進取の精神が富をもたらしたと言った方が正しいかもしれない。あちこち乱読して、想像も加えてあてずっぽうに書いているので戯れ言だと思って読んでくだされ。
さてさて、カツオ漁が飛躍的に向上したのにあわせて、東廻り航路の波にのったのが第二の革新だと思う。東廻り航路は主に東北で生産された米を効率よく江戸へ送るために開発され、1671年に確立した。それはカツオの新漁法を学んだ年代と重なる。漁獲量が10倍になったとはいえ、売れなければ無意味だから、大消費地の江戸へ供給して富がさらに倍加したのではないかと考えた。東廻り航路について詳しくはこちらを参照していただくとして、当時の気仙沼港には漁船と菱垣廻船がひしめいていたのだろう。いち早く紀州漁法をとりいれた鈴木家のみならず、地域全体で先行者利得を得て、カツオを獲れば売れ、鰹節を作ればじゃんじゃん運ばれる、そんな好循環が発展の礎になったのだと思う。
江戸へ運ぶには二つの航路があった。一つは房総半島をぐるりとまわって東京湾に入る方法。二つ目は銚子で川舟に積み替え、利根川を遡って水運を使う方法。銚子では米以外の一般商荷物を扱う廻船問屋を「気仙問屋」と呼んだというから、気仙沼周辺の産品がそれだけ銚子に集まったことがうかがえる。それにしてもなぜ銚子なのか考えてみた。
冷蔵技術がない時代、生で運ぶなんてまれ
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塩漬けか乾物を運んだ
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積み替えの作業工程が増えたとしても、乾物は米俵ほど重くない
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海運と比べて遭難リスクの低い水運を使った
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だから銚子が経由地となった
そしてさらに、
平地の少ないリアス式海岸での稲作は不適
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絹や葉たばこなどの軽くて高価、運びやすい産品を生産した
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海産物に加え、農産物も混載した
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取引量がますます増えた
風が吹けば桶屋が儲かる式で、史料に基づかない仮説だから当てにならない。これが正しいかどうかさらに調べなければならないが、航路の確立が富をもたらしたのは間違いない。そして、この東廻り航路で得た富はやがて、生産技術の革新につながっていく。
KENJI
参考:東京海洋大学生産工学部 江戸時代の航路と街の成り立ち
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