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32 posts from 2007年11 月

2007-11-15

マデに

Madeni

 日経に福島相馬地方の方言「までい」が載っていた。これ、気仙沼でもイントネーションは違えど言ってるんでないの。両手を意味する“真手”から来ているらしく、意味は「丁寧に」。調べてみると東北のあちこち、とくに太平洋側で使用されている。イントネーションは微妙に違うだろうが、気仙沼ではカクテルの「マティーニ」と同じイントネーションで発する。さらに演歌のうなりを織り交ぜて「マデェーに」と発するとそれらしく聞こえる。

 床屋で「マデに切ってけらい」と言えば通常より長時間、ステーキ屋で「マデに」と言えばウェルダンが出る。かどうかは噂だが、気仙沼では「時間をかけて」の意味で使われる場合が多い。使用場面を考えてみると、親に言われた記憶はあるが、言った記憶がない。客が言うことはあっても、店からは言わない。そりゃ丁寧にやるのは当然だから自ら「マデにやりました」とは言わない。そう考えるとマデは店と客、親と子、親方と弟子のように力関係がはっきりしている場合に、命令、依頼、要求、報告で使われていると思う。「両手で扱うほど丁寧に」が本来の意味だから、それを知ってか知らずか目下の者は使わないのかもしれない。

 ところでこのマデ、語源は万葉集までさかのぼる。両袖を「真袖」と詠み、当時から完全な状態を「真」と呼んでいたという説が有力だ。また「真手」は平安末期の歌人、西行法師が次の歌を詠んでいる。

 御手洗(みたらし)に 若菜すすきて宮人の まてに捧げて 御戸開くめる <山家集>

 水場で春菜をすすぐ宮仕えが、うやうやしく両手に持って戸を開ける…ということなのだろうか。でも両手が塞がっていたら、足や肩で開けたのだろうか。まあそれはいいとして、西行法師は奥州藤原氏の遠戚で、奥州へ二回来訪していることにピンときた。西行法師の行路と「マデ」の使用分布が重なったら面白いなと。マデ=両手=完全な状態=拝む手つき=真理とつながるのではないか。ひょっとして西行法師は仏法を説きながら奥州へ来ていたのかも。

 それに西行法師が奥州藤原氏を訪ねた理由は、友人の僧侶から東大寺再建のスポンサー探しを頼まれたためと言われている。当時、奥州は金の産地。金で覆われた大仏を作るには、藤原氏の協力が必要だったと思う。そして、援助を約束した奥州藤原氏は、金の採掘現場へ「真手に」とお触れを出したのかもしれない。産金地と「マデ」の分布が重なったら面白いかも、なんてまた仮説を立ててみた。

 知の蟻地獄に陥っている。

KENJI

日本経済新聞 春秋2007年11月10日

2007-11-14

冬が来る前に

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 近所のあっちこっちが赤く染まっています。さて、ここはどこでしょう。

 朝のひとっ走りでパシャパシャ撮って見たものの、ん~、なかなか難しいです。実際はもっと赤いんですけどね、、、。

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 そうです、ここは図書館前。

 数日後に寒波到来という予報なので、もう少しは楽しめそうです。今日は暖かな朝だったので、校庭で遊ぶ子どもたちの声がとても元気です。

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 桜の古木を見上げたらこんな感じ。「お~い、がんばれよ~!」っていわれた気がした(笑)。

seiko

2007-11-13

借景もみじと山茶花

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 八重さざんかが咲きだして、初冬を感じる季節になりました。いつになくつぼみをいっぱいつけて、今年のさざんかは満開になりそうで、これからが楽しみです。

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 図書館へ抜ける狭い坂道のモミジは、寒さが増してさらに鮮やかになってきました。落ち葉がカサコソカサコソと風に運ばれて、行く秋を惜しんでいる感じかなぁ。

seiko

2007-11-12

遣水の水源を追う

Yarimizu

 5月に毛越寺へ行ったとき、遣水の水源を追った。造園技術の完成度もさることながら、何に一番感動したかと言えば、平安時代にこんな導水技術があったということ。水は高きから低きに流れるのは今も昔も変わらない。バルブメーカーに勤める友人が、隙間があれば漏れるし、窪みがあれば滞留するし、水は簡単なようで難しいと言っていた。考えてみるとその通りだと思う。今じゃポンプで引けるけど、動力のない当時、絶やさずにとうとうと流れる仕組みをどうやって造ったのだろう。沢水を引いたのか、それとも水源が近くにあるのか。いにしえの土木技術に想いをはせながら、水源を追ってみた。

Shusuiguchi

 遣水を登っていったら、寺の境界に沿って中尊寺までの遊歩道が整備されていた。その脇に用水路がある。これか。どうやら遣水専用ではなさそうだ。田植えの時期だからなのか、雪解け時期だからなのか、水がとうとうと流れ、ハンドル式で取水量を調節している。水路は石垣で積まれているけど、古くない。たぶん、遊歩道と一緒に整備したのだと思う。平安時代の取水路もこれだったのだろうか。ますます気になる。

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 500m位歩くと東北自動車道にぶつかった。近くに川があったので取水口を見つけたと思いきや、水路は高速下を横切って、まだまだ続いている。どこまで延びてるんだろ~。

Shusui_endpoint

 高速を横切って、県道ねずみ沢線を300m位のぼったらフェンスがあった。おぉぉ、ここか!と思いきや、水路はまだまだ続いていた。

Shusui_continue

 沢の対岸に水路が…。フェンスで遮られてそれ以上は追えなかった。それにしてもどこが水源なんだろう。まさか平安時代にこんな長い水路は造ってはいないだろう。察するに昔の用水路を農業兼用に整備し直して、水が枯れない場所に取水口を設置したと思うけれど…気になる。

KENJI

2007-11-11

とんでもない語り部?

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 魚町地域の変遷について、東北学院大の学生さんが聞き取り調査中です。お願い文が届いていましたが、漠然としたもので皆目見当がつきかねていました。ま、いつもの出たとこ勝負でお待ちしていましたがね(笑)。

 何班かに分かれての調査のようで、我が家には3人の学生さんが来て、様々な質問攻め(?)にあいました。答えが段々横道に反れたり、電話が鳴ったり、来客があったりで、じっくり対話と言うわけにもいかず、とんでもない語り部になってしまってごめんなさいね。

 戦前、戦中、戦後と聞かれてもスパンが長すぎて何から話し始めたら良いか戸惑ってしまいました。散漫な話だったけど、どうぞうま~くまとめて発表にこぎつけて下さいね。

 日常の慌ただしさの中、たまには振り返ることも大事なんでないか?としみじみ思った夜でした。

seiko

河原田ライブカメラ

BBっといー東北