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2009-12-21

気仙沼はなぜ宮城県に編入されたのか

 首都圏にいると、気仙沼は岩手県だと認識している人が意外と多い。新幹線の最寄駅は岩手県だし、地図の境界線を注視しなければ宮城県の北東がひょこっと出張っているなんて気づかないし。逆に考えれば二倍楽しめるわけで、どちらの県民性にもあてはまる。というか、誤解を恐れずに言えば僕はどっちでもいい。それと僕は県民性や国民性を当てにしていない。よく「日本人はこうだ」だの「宮城県人は」「気仙沼人は」と語られるが、あれは客観視した風にみせて自分のことを言っている。以前「宮城県人は見栄っ張り」と言う宮城県人に「あなたがね」と答えたらひどく怒られた。中にはそうでない人もいるわけで、一部の傾向を全体として捉えることにどうも違和感を覚える。

 そんな話はもとより、タイトルの内容について。4年前に調べようとしたテーマである。

・廃藩置県のさい、6回目でようやく宮城県に落ち着いた。

 賊軍となった伊達藩の力をそぎ落とすために、明治新政府の都合にあわせて改編が繰り返された結果とばかり思っていた。こないだ帰省して友人と飲んでいたら、こんな説をとなえていた。

・気仙沼の金鉱目当てに旧伊達藩と旧南部藩が綱引きをした。

・牛を馬を歩かせて境界線ができた。

 牛馬説はなんか聞いたことがある。街道の両端からそれぞれ牛と馬を走らせて、交差した地点が県境になったとか、馬が走れる距離をもとに計算したとか、そんな話だったように思う。金鉱目当て説は初めて聞いた。境界線は律令国以来の行政区分と山脈の分水嶺や河川などの地形が基本になったと思うが、いずれにせよ、宮城県編入のいきさつの中に当時の気仙沼の立ち位置が見えるような気がする。

KENJI

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コメント

千年以上から続く室根大祭。

唐桑の「ある物」が、室根神社で必ず使われていたと聞いたことがありますよ。

大祭と深い繋がりがあるのに…ね。

>ハマーさん

たしか海水ですよね。もともとは1200年以上前、三重の鈴木なんちゃらという人が唐桑にたどり着いたのが気仙沼のはじまりだといわれています。それが鮪立の古館鈴木家のようです。で、室根山が沖からの目印にもなり、ふるさとの熊野から分祀したのが室根神社。和歌山に牟婁(むろ)郡という地名がありますから、牟婁根=ルーツ牟婁が転じて室根になったという説があります。ちなみに安波山は江戸中期に命名されました。http://takeyama.weblogs.jp/takeyama/2007/12/post-0980.html

文化的には気仙沼圏域なのでしょうが、分断されているのが残念ですね。

私には気仙沼を無理に宮城県に残したと言うよりは、一関を宮城県ではなく岩手県に帰属させた結果、気仙沼が宮城県に残ったように思えます。
たぶん、伊達家の仙台藩の北部地域を両県に分散させることによって、強大になると予想された宮城県の力を弱めたかったのでは。
今でも東北では仙台を中心とした宮城県が経済、政治の中心になっています。
最もなぜ室根で境界線を分けたかの疑問が残りますが、あの大曲の山道が昔も難所だったのかもしれません。

魚町出身の伯母が、牟婁郡(那智勝浦)に嫁に行ってます。
そっちから漁業の仕事で気仙沼に来ていた伯父とご縁があったのだそう。
もっと昔から、いろいろ繋がりがあったのかなと思うと、なんだか興味深いですねー。

うちに来ているメーカーの営業さんたちのエリア担当も、
メーカーによっては、気仙沼だけ岩手エリアに入っていたり、
逆に陸前高田あたりまで、宮城エリア担当、ってこともあるみたいです。
これは、今みたいに車ではなく、JRやバスで担当者が移動していた時代の名残、らしいです。
いずれ、両方に入れるって、面白いと思います(^^)

>三明さん

なるほど。奥羽越列藩同盟の首謀とされた伊達藩は木っ端みじんに力をそがれたのかもしれません。そして当時の優秀な人材、とくに武士は食えなくなって北海道開拓に活路を見いだしたのでしょう。そのために新政府での発言力が低かったんだろうなと、ドラマ坂の上の雲を見ながらふと思いました。

司馬遼太郎の「街道をゆく」だったかにこう書いてありました。司馬史観によれば「東北の歴史は敗者の歴史。ねばり強さは長期間雪に閉ざされているからだけでない」と。探しているのですがまだ見つかっていません。

話を戻して、税の集めやすさで郡ができたとしたなら、あの大曲は難所ですね。取り立てに行くたびこぼしそうですもん。なぜ室根が東磐井郡で、岩手県なのか調べるのも面白そうです。

>kazueさん
陸上交通が急速に発達したのがここ100年位だと考えると、それ以前はヒトも情報も海からやってきたんでしょうね。残念なのはJRのフリー切符が北東北扱いで盛岡・八戸と同じ料金になってお得感が半減しちゃうのと、一ノ関駅や室根山頂の観光案内板で気仙沼が白地図になっていることです。

お久しぶりです
高田出身の人から言わせれば、気仙沼は近い存在。昔から人的・経済的交流がありましたからね。気仙沼の船会社の乗組員として働いた人も多かったですし、気仙沼や唐桑からお嫁さんに貰ったり、汽車通で気仙沼の学校へ通ったり・・・。
岩手出身者ということでお約束のように必ず言われること・・・「気仙沼が岩手県だったら、もっと道路りっぱだったべなぁ。」

それから鉄道の世界にも微妙な境界線が。
JRには仙台支社と盛岡支社がありますが、大船渡線の宮城県を走る部分や、気仙沼線の気仙沼~本吉間は仙台支社ではなく盛岡支社の管轄です。これは、昔気仙沼線が本吉までしか開通していなかった時代(本吉線と呼ばれていた時代)の名残です。
ですから、仙台への直通列車の増発をお願いするのも、JRのHPに気仙沼の観光情報を載せて欲しいという要望も仙台ではなく盛岡支社にお願いに行くのです。

>リアスの汽笛さん

僕もよく聞きました。小学校3年のころの記憶です。上鹿折と矢作の県境をまたいだ途端道が開けて、祖父が「ほらな」って。車内では祖父と祖母が「岩手県は道路が立派」話をしていた時でした。盛岡までおおむね二時間を政策の柱にしているからと聞いたことがあります。
 それから鉄道、「寿司街道はフリーきっぷで」のパンフレット見たら石巻までしか行けなくて。仙台宮城DCよりも岩手DCに組み込まれた方がお得な切符が出そうですね。

 その昔、気仙郡から本吉郡が分立されたんだっけ?気仙沼は、太古は気仙郡だったことは、恐らく確かなんだけど。

 ま、県の境は、郡単位で決められたんで、今は石巻市北上町の一部になっている十三浜や登米市津山町の柳津まで含む本吉郡を、どちらに入れるか、はみ出しの長短の問題だったのかもしれませんね。
 両方のお城から走らせた馬だか人だかが出会った線で分けたという伝説は、ほんとか嘘か知らないけど、伊達藩と南部藩の境のことで、どっかに相去という地名がある。沿岸部では、今の釜石市内になりますね。

 水沢や釜石の一部まで含んだ伊達藩の力をそぐために、宮城県の範囲を狭くしたというのはほんとかもしれませんね。

>baseさん

なるほど。やはり伊達藩分断説が有力ですね。

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