127 posts categorized "旅行"

2006-03-28

大川を歩く その1

Kt250221  土曜日の午後、雲ひとつない快晴だったので大川を散歩する。撮った写真すべて枯葉ばかりで、まごまごしていると桜の季節になってしまう。というわけでこちらを先に。

 25年前、たしか小学校3年生だったと思う。夏休みの自由研究で河原田のK子ちゃんが「大川の研究」と題した観察記録を発表したのを覚えている。下流は砂地で、上流に行けば行くほど石が大きくなる、そんな内容を思い出しながら大川の河口からてくてく歩く。波の音が聞こえる。1時間前が満潮だったようで、砂は湿っていた。なのに風の力で波は上流に向いている。海水と淡水が混ざりあう汽水域がどこまで続いているのだろう。手ですくってすする勇気がなかったので目で追いかけたら、1キロ上流にあるあけぼの橋あたりまで波が立っていた。昔、さらに1キロ上流の気仙沼大橋のあたりでも逆流を見た。大川の場合、汽水域は河口から2キロ先までなのだろう。海と森は意外と近い。

KENJI

2006-03-22

やせミチを歩く その2

Satomiya_shrine_1  すっかりご無沙汰していた散歩シリーズ。その1で想像にまかせて適当に書いたら不安になって、あちこちの書物を探っていくうちに収拾がつかなくなっている。まるで蟻地獄だ。一点に集中して深く掘り下げようとすると周りから土が崩れて埋まっていくように、縁辺の情報も知らないと核心にあたらない。街道にはまってしまった。面白すぎる。

 というわけで前回、八瀬街道は平泉との交易路だと推測したが、どうやら胆沢とつながったのが先のようである。地図を見ても、八瀬街道から大原を抜け、国道343号線を結ぶと胆沢城との最短経路になる。

 胆沢城といえば802年、今から1200年前のことだ。律令国家が東北進出の拠点として征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営し、808年に多賀城から移された鎮守府である。多賀城ができたのが724年だから、胆沢城に移るまでの約80年間で気仙沼も律令国家に組み入れられたのだろう。蝦夷と律令国家の境目には文化的衝突があったのだろうか。親潮と黒潮がぶつかりあうと生産生物が活発になるように、境目に何か有意性があるかもしれない。なんて想像していくうちにおっとっと、また変な方向へ興味が移ってしまう。京都では新しい支配地域に入植者を募集した。誰が来たのだろう。これまた興味深い。

 国道284号線から現在の県道をてくてく歩いていたら神社を見つけた。カメラをぶら下げて覗いていると神主が出てきた。里宮神社。聞けば平成元年、八瀬地域にある北野神社、八雲神社、秋葉神社の3つをまとめ、分社した。どれも山の上にあり、高齢化と過疎化で参拝しにくくなっているために里に設置されたという。気仙沼で北野神社といえば新町のお天神さんを考えてしまうが、上八瀬にもあると初めて知った。しかも1000年前からあるそうだ。八雲神社は998年前から。逆算すると奥州藤原氏より前の時代になる。これらの神社は原始宗教が始まりなのか、それとも文化やら風習やらを伝播する道ができて始まったのか。名前からみて僕は後者ではないかと推測した。

KENJI

2006-03-07

経験と勘

Uoichiba  こないだ魚市場でマグロやらサメやらをパチリと。港町で育ちながら、マグロの見分け方を齢三十にして知った。それがこの写真。

 マグロの尾を切って、切断面から見えるスジや色で中身を判断するそうだ。赤身が多いのか、脂がのっているのか、スジばっているのかほとんど分かってしまうという。のんこと呼ばれる鎌に似たカギを引っ掛けて、仲買人が次々と尾をのぞく。尾を日のあたる方向へかざしてみたり、懐中電灯で照らしてみたり、5秒もしないで次の目当てを探している。瞬時の判断には経験と勘が必要なのだろう、目利きは年配の方が多かったように思う。僕と同年代だろうか、比較的若い人は二人で見ていた。

KENJI

2006-03-04

やせミチを歩く その1

Matsukawagawa

 気仙沼から内陸への主要道は国道284号線だ。その原型は藩政時代に整備され、気仙沼街道と呼ばれた。天保の大飢饉では4000人以上が死んで、藩命を受けて秋田藩へ米を譲り受けに行った大工がいたそうだ。熊谷新右衛門。彼は気仙沼から秋田までの旅程を『秋田日記』に記した。

 それ以前、中世は松川から上八瀬、鳥居峠を越える八瀬街道が内陸部と結ばれていたという。石碑には「やせミチ」と刻まれている。八瀬といえば京都比叡山のふもとから大原へ抜ける地域もそうだ。山にはさまれ、谷あいには高野川が流れている。気仙沼の八瀬も地形が似ているから、奥州藤原氏時代に京都を模して名づけられたのではないかと思う。平泉は当時、平安京に次ぐ日本第二の都市だった。栄華を極めて1124年には中尊寺金色堂を建立した。この辺で金が産出されていたことを考えると、あの金色堂の一部には気仙沼産の金が使われ、八瀬街道を通っていたに違いない。

 史料によれば「気仙沼街道は交通の難所で、中世は八瀬街道が主要道だった」と書かれているが、僕はそうでないような気がする。平泉は北西にある。真西から北へ向かうより、最短距離で向かおうとした。だからわざわざ真西に道をつくる必要がなく、八瀬街道を使っていたのではないか。直角三角形のイメージだ。藩政時代に気仙沼街道が整備されたのは、平泉ではなくて仙台や江戸とつながるため、あるいは内陸で生産された葉煙草や蚕の交易路として真西に伸びたのではないかと思う。

 奥州藤原氏の栄華に想いを馳せながら、やせミチを歩いてみた。写真は松川橋から撮った松川川。

KENJI

参考資料 
かんせん東北vol.19「内陸と沿岸を結ぶ流通・交易の道
東北の道路「気仙沼街道
気仙沼の峠「鳥居峠

2006-02-13

おのぼりさん

Ryouri_028  春まだ浅い東京の空気を吸いに行ってきました。体が寒さに慣れているのでしょうか。東京は暖かいと言って、ジャンパーを着ないでホテルを出たfumihide。夜でもセーター一枚で外出できるほど暖かいのに、みんなコートを羽織っています。

 着いて間もなく、のり子さんに教えていただいたお店へ行き、韓国家庭料理「ガムジャタン」をはじめて味わいました。豚のあばら骨を煮込んだスープがベースで、茹でジャガイモ、豆もやし、ニラ、ネギが入っていました。キムチ味で七味たっぷりに山盛りのすりゴマ。そのゴマも「エゴマ」が使われているではありませんか。鍋の底にエゴマが溜まっているのを見て、しめしめ、我が家でもやってみるぞと思ったのでした。

 店を出たとき、fumihideは店員から「上着を忘れてませんか」と訊かれていました。気温は暖かいし、鍋を食べてお酒飲んで火照っているし、「だれぇ、あったけえもの」と答えていました。

 deg一家の引越しにかこつけて、行き当たりばったり1泊2日。deg一家さん!猫の手も借りたい引越しに「猫の手」に程遠くてごめんなさいね。また、振り回されたであろうkenjiさん、yokoさん、ありがとうございました。

seiko

河原田ライブカメラ

BBっといー東北