すっかりご無沙汰していた散歩シリーズ。その1で想像にまかせて適当に書いたら不安になって、あちこちの書物を探っていくうちに収拾がつかなくなっている。まるで蟻地獄だ。一点に集中して深く掘り下げようとすると周りから土が崩れて埋まっていくように、縁辺の情報も知らないと核心にあたらない。街道にはまってしまった。面白すぎる。
というわけで前回、八瀬街道は平泉との交易路だと推測したが、どうやら胆沢とつながったのが先のようである。地図を見ても、八瀬街道から大原を抜け、国道343号線を結ぶと胆沢城との最短経路になる。
胆沢城といえば802年、今から1200年前のことだ。律令国家が東北進出の拠点として征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営し、808年に多賀城から移された鎮守府である。多賀城ができたのが724年だから、胆沢城に移るまでの約80年間で気仙沼も律令国家に組み入れられたのだろう。蝦夷と律令国家の境目には文化的衝突があったのだろうか。親潮と黒潮がぶつかりあうと生産生物が活発になるように、境目に何か有意性があるかもしれない。なんて想像していくうちにおっとっと、また変な方向へ興味が移ってしまう。京都では新しい支配地域に入植者を募集した。誰が来たのだろう。これまた興味深い。
国道284号線から現在の県道をてくてく歩いていたら神社を見つけた。カメラをぶら下げて覗いていると神主が出てきた。里宮神社。聞けば平成元年、八瀬地域にある北野神社、八雲神社、秋葉神社の3つをまとめ、分社した。どれも山の上にあり、高齢化と過疎化で参拝しにくくなっているために里に設置されたという。気仙沼で北野神社といえば新町のお天神さんを考えてしまうが、上八瀬にもあると初めて知った。しかも1000年前からあるそうだ。八雲神社は998年前から。逆算すると奥州藤原氏より前の時代になる。これらの神社は原始宗教が始まりなのか、それとも文化やら風習やらを伝播する道ができて始まったのか。名前からみて僕は後者ではないかと推測した。
KENJI
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