気仙沼から内陸への主要道は国道284号線だ。その原型は藩政時代に整備され、気仙沼街道と呼ばれた。天保の大飢饉では4000人以上が死んで、藩命を受けて秋田藩へ米を譲り受けに行った大工がいたそうだ。熊谷新右衛門。彼は気仙沼から秋田までの旅程を『秋田日記』に記した。
それ以前、中世は松川から上八瀬、鳥居峠を越える八瀬街道が内陸部と結ばれていたという。石碑には「やせミチ」と刻まれている。八瀬といえば京都比叡山のふもとから大原へ抜ける地域もそうだ。山にはさまれ、谷あいには高野川が流れている。気仙沼の八瀬も地形が似ているから、奥州藤原氏時代に京都を模して名づけられたのではないかと思う。平泉は当時、平安京に次ぐ日本第二の都市だった。栄華を極めて1124年には中尊寺金色堂を建立した。この辺で金が産出されていたことを考えると、あの金色堂の一部には気仙沼産の金が使われ、八瀬街道を通っていたに違いない。
史料によれば「気仙沼街道は交通の難所で、中世は八瀬街道が主要道だった」と書かれているが、僕はそうでないような気がする。平泉は北西にある。真西から北へ向かうより、最短距離で向かおうとした。だからわざわざ真西に道をつくる必要がなく、八瀬街道を使っていたのではないか。直角三角形のイメージだ。藩政時代に気仙沼街道が整備されたのは、平泉ではなくて仙台や江戸とつながるため、あるいは内陸で生産された葉煙草や蚕の交易路として真西に伸びたのではないかと思う。
奥州藤原氏の栄華に想いを馳せながら、やせミチを歩いてみた。写真は松川橋から撮った松川川。
KENJI
参考資料
かんせん東北vol.19「内陸と沿岸を結ぶ流通・交易の道」
東北の道路「気仙沼街道」
気仙沼の峠「鳥居峠」
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