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31 posts from 2009年1 月

2009-01-11

牡蠣のパスタ

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 seiko記者から、あんだも持ってったんだがらそっちで書けとの厳命を受け、牡蠣のオイル漬けを使ったパスタを紹介します。この写真はseiko記者のもの。つぼみ菜も入っています。僕のは茹でたパスタにあえただけ。それだけなのに専門店の味です。ニンニクと香草の香りがしみたオイルがパスタと絡まって、牡蠣のコクが味を引き立てて。ペペロンチーノに牡蠣が加わった感じです。ぺろり平らげました。

 今回のは生がきをから煎りして水分を飛ばし、冷めてからオリーブオイルや塩コショウ、乾燥香草をたっぷり入れたそうです。レシピはこちら

 これ、炊きたてのご飯にのせてもうまそうだし、トマトベースのリゾットに混ぜるだけで本格的になるかも。

KENJI

2009-01-10

ジャケ買いです

Kibougaoka

 重松清著『希望ヶ丘の人びと』(小学館)の装丁を奥原しんこ画伯が手がけたそうな。週刊ポスト連載時も挿絵を担当していて、行間から浮かぶ風景を楽しみにしていた。その集大成ともいうべき装丁がこれ。うれしいでないの!このブログをご覧の方なら、どこがモチーフかピンとくる人も多いと思う。この風景に懐かしさを覚える人はぜひ書店へ。1月15日発売。

KENJI

2009-01-09

ちょすの境界線

 Mikeさんのコメントで思い出した。「ちょす」の境界はどこにあるのか真剣に考えたことがある。「しずる」と「すっかげる」の境界を考えたときだ。しずるは精神的接触、すっかげるは肉体的接触だとすれば、「ちょす」はなんだろうと。

「彼はスナックでママをしずった」

 酒場の会話程度のからかいで、後腐れのない精神的接触が想像できる。

「彼はスナックでママにすっかげだ」

 口説いたり、小突いたり、軽度の精神的・肉体的接触が想像できる。

「彼はスナックでママをちょした」

 これはやばい。重度の肉体的接触を想像してしまうのは僕だけだろうか。

 さてさて、同じ肉体的接触のすっかげるとちょすの境界はどこか。好意を寄せながら相手に通じない接触が「すっかげる」とすれば、社会通念上触れてはならぬものへの接触が「ちょす」ではないだろうか。ここでは人を例に挙げたが、治りがけのかさぶたや完成間近のジグソーパズルなど、物にも当てはまる。さらに禁止語として使われる場合が多い。そう考えると「分かっちゃいるけど触りたい」ものに対して接触する行為、それが「ちょす」なのだろう。

KENJI

2009-01-08

だれの使い方

 気仙沼弁の「だれ!」の使い方を考えてみた。標準語でいう接続詞の「だって」だが、そんな使い方は聞いたことがなく、抑揚で意味が若干異なることに気づいた。

「おらいの息子、あんだいで使ってけんねべが」(うちの子を御社で雇ってくださいませんか)

と言われたとしよう。すると考えられるだれは3つある。

「だれ!」「だーれー!」「だれだれだれだれー!」

 「だれ!」は最初から断るつもりで、はなから否定する即答だれ。次に出る言葉は「景気わるくて(雇えない)」だろう。極めて短く、スタッカートを聞かせて「だ」を強調する。

 次の「だーれー!」は否定なのか肯定なのか分からない困惑だれ。こちらは流暢かつ「れ」を強調して発音する。何度も拝み倒されているとか、対象年齢に達していないとか、困惑しつつも否定しているようでしていない、でも何となくニュアンスが伝わる、といったところだ。

 「だれだれだれだれー!」は次の言葉がみつからず、とりあえず発する連発だれ。顎を上げながら地声を半音あげて発すると言いやすい。「やぃやぃやぃやぃやぃ」ではへりくだり過ぎ、「ばばばばば」では驚きすぎ、その中間が連発だれだろう。感情を込めつつも、同じ目線で次の言葉を探しているのが垣間見える。たぶん「おらいみでなどごではもったいねでば」とか「あんな優秀な息子さんおらいで使うなんて」と相手を気遣いながらやんわり断ることだろう。また、ドアに裾が挟まったまま発車した時やおひたしに醤油をかけすぎた時に目撃者が発する。そのことから考えても、場つなぎの意味合いが強い。

 このように、相手を飽きさせないほど連発したり、相手の受け取り方で判断できるよう配慮したり、サービス精神をまぶしているのが「だれ!」なのだろう。

KENJI

 

2009-01-07

というわけで

 seiko記者の一眼レフが修理中のため、2週間ほど僕が書き続けます。新鮮な気仙沼ネタを楽しみに訪れるみなさんごめんなさい、次回の入荷は一月下旬になりそうです。と書くとなんだか寿司ネタみたいですね。鮮度は落ちますが僕なりの気仙沼ネタをアップして…、と書いたところで思い出しました。

 そうそう、情報は生ものだと気づいたんです、数年前に。魚と同じで鮮度が命。それに精度と角度と頻度が情報の価値を左右するのだと。パソコンも携帯も使わなければただの箱。使いこなすはその人次第。テレビやラジオから一方的に与えられる情報と違って、どのような情報に接するかは自分で選べる時代になったわけで、その時の見きわめ方が上の4つの原則だろうと。新しい情報か、正確な情報か、発信源はどこか、何回接しているか。携帯だの地デジだの情報機器がいかに発達しようともこの原則は変わらないと確信しました。

 だから?と言われればそれまでだけれど、情報リテラシーとはこういうことなんだろうと勝手に解釈しています。

KENJI

河原田ライブカメラ

BBっといー東北